「トーキー音樂」の開拓

山百合報知

2026/03/06 19:00

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トーキー音樂というジャンルを創りたい

私が夢みている、

次の目標に掲げている野望だ。

トーキー音樂とは何か、

1930年代の映画を観ているやうな

物語を音樂にする事である。

たまに映画を観ている氣持ちになる。と

身に余るお言葉を頂くことがある。

私としてはこの上なく喜ばしいが

実際、映画を作るつもりで

書いた作品は未だ世に出せていない。

 

正直な事を言うと

映画と呼べる程

洗練された脚本を描くだけの

知識や戦前日本の暮らしが

景色として見えていなかった。

所詮私は

名ばかりの大正ロマン作家だったのだ。

知識人らしさを醸し出しながら隠せない

己が浅ましさは劣等感の一つであった。

努力が足りなかった。

いや、学ぶことを努力だと

思ってしまう前提自体が情けないのだ。

 

私は「楽しむ」を前提に

学びの扉を開くことを決意した。

 

オークションで落札した

色褪せた当時の書物を読み漁る

ある時は女學校の国文教科書

家庭科教科書、西洋史

強く逞しく、麗しい

女性の人格形成の疑似体験。

 

またある時は、雑誌「改造」

「アサヒグラフ」「婦人雑誌」

これらから当時の時事、流行

価値観の吸収を試みた。

 

そして、当時の日本に存在した

「P.C.L映画製作所」のトーキー作品を

数十本鑑賞した。

貴重な映像を通して演出、

作品が伝えたい事を汲み取れるだけの

己が精神の発展、そして

当時の人々の精神、人々の距離感

温度感、会話を今として感じる。

 

オールドトーキーを鑑賞するなかで

「成瀬巳喜男」監督の作風に

私は惚れてしまった。

 

私は哲学に生かされ

抽象的表現を盾に作品の

解像度を落とす事を黙認してきた。

 

だが敏腕成瀬巳喜男の作品に投影された

日常のリアリズム。

逆境の中でも自分軸を失わない

強い女性らしさ。

小さな仕草ひとつひとつの美しさ。

そして何より衝撃を覚えたのが

現代では考えられない省略の美学である。

 

「なぜ?」と思わせる映画の終わり方。

1番観たいはずのシーンを

ポッカリとくり抜いてしまったような、

其の余白に圧倒的な哲学が生まれる。

 

この哲学要素は

「私自身が聴き手に答えを提示しない。」

というひとつの信念と合致した。

 

未熟ながらも己が哲学を信じ、磨き

現在を生きる人々に当時の世界を見せる。

そして其れが

あたかも昨日の事のように感じられるくらい

高水準かつ洗練された暮らしを再現し

現代人が思い描く

100年前像との乖離を無くしていく。

 

成瀬巳喜男イズムを一部継承し

強く美しい女性像を描く為に学び

空想を重ねひたすらに描き、歌う

果てしない過程を超えた時

現代社会に「トーキー音樂」という

ひとつのカルチャーが産声を上げる。

 

私はその日を手中に収めるまで

決して諦めない。

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